2023年4月6日木曜日

入学式余情と合祀祭

 「余情」という言葉がある。後まで残っている、印象深いしみじみとした味わいなどを表現する時に使う。良い言葉だ。私は今、昨日の入学式の余情に浸っている。「余剰」ではない。これは余り物で邪魔な存在で嫌な響きがする。「余韻」という良い感じの言葉もある。これは音の鳴り終わったのちに、微かに残る響きや、音が消えたのちも、なお耳に残る響きから出て、「事が終わったあと」も残る風情や味わいなどを言う。私はまだ昨日の入学式の余韻に浸っている。学校において余情に浸る瞬間は間違いなく入学式と卒業式だが、卒業式はどちらかというと寂しさが残るが入学式は「晴れやかで、先行きに希望」が拡がる。私は入学式の雰囲気を好む。昨日の入学式は良い雰囲気の入学式だった。一昨年が1011人で今年が1048人だったが開校100年目の入学式が昨年よりいささかでも増えているのが余計に気分を高揚させている。 


特に本校は私立であり神社神道の学校ゆえにあらゆる所、様々な場面で「目を引く企画」がある。これが極めて大切である。言葉ではなくて「目に入る映像」で人々を引き込むのだ。最初に神楽部と雅楽部が装束に身を包み、学院神社の大神様への奉納の舞と音曲は生徒、保護者をさぞ驚かせたことだろう。「鈴祓い」という行為に目を見張ったに違いない。更に鳥居前には高校、中学の「神輿」があり在校生がお祭りみたいに「わっしょい、わっしょい」練り上げた光景には「ここはお祭りか?」と腰を抜かさんばかりではなかったか?体育館に入ると吹奏楽部が生演奏で学院曲である「海道東征浪速」を演奏しており、会場はテレビカメラのクルーがレンズを覗き込んで自分たちを写している。自分のお母さんは会場に一人もおらず教室で自分たちを見ていると生徒達は思ってくれただろうか。昨日だけで1048人の母親とユーチューブによる「ライブ中継」の映像は祖父母や親戚などに「本校の有り姿」を見て貰ったことになる。これは間違いなく来年に繋がる話である。今は既に来年に繋がっているのである。 





本日午後7時から学校法人の「合祀祭」を実施した。「祭主」は私で「斎行」は例年、市内の坐摩神社の神職にお願いしている。明日は「春の例祭」の日で、例年その前日の夜に行われるのだが雲行きが怪しいので場所は神社横の「回廊」とした。神道の合祀は「浄暗の闇の中」で行われる。浄暗、あるいは浄闇と書き「じょうあん」と読むのだが、神事をとり行う際は「けがれのない暗闇」で行う。今まで合祀されている神様へのお礼と新たに今年は一柱(ひとはしら)の合祀であった。これで「祖霊殿」に合祀されている御魂は合計1274柱となった。「祖霊殿」に祀られた先輩諸兄や恩師が神様となって今生きている生徒達の健康と学業の成就を見守ってくれているのだが、僅か3年、本校で学んだだけで希望があれば母校に祀られるのである。私はこの点こそ、本校の誠意であり優しさだと思う。このような学校は無いと思う。 


全てが終わった後は記念の写真撮影である。神様の数え方は人間ではないから、何人とは言いず、一柱、二柱というように、柱(はしら)と数える。「古事記」の記載から来ている。何故柱と言うのか専門的には良く分からないが、古来より日本人は、自然の中に神々の存在を感じ、特にそもそも神社のご本殿やご神体は、大自然そのものであった。山国である日本にとって、森は神々が存在する場所であり、現在でも神社には「緑深い鎮守の森」がある。本校の学院神社も立派な楠木がこんもりと茂っており、一応鎮守の杜を形作っている。神木と言われている「楠の木」は最も太いもので幹回りが3m83㎝あり、学校創立以来の樹だと私はみている。このように神道には木を大切にする宗教文化があり、木から作る柱は御承知のように「家」において極めて重要なもので、そういう関係から「神様は柱におりてくる」、逆に言えば柱こそ神であると私なりに理解しているのである。