2023年4月27日木曜日

今日は30日奉祝祭の「習礼」を行った

 「習礼(しゅうらい)」という言葉がある。日本国語大辞典によると読みは“しゅうらい”が最初に出ている。「らい」は「礼」の呉音であり、元々は儀式の行なわれる前に、係の役人などがその礼式を予行すること、「大儀の練習」をすることで、私の存じ上げている神職の方々は「しゅらい」と読まれる。本日は10時から市内の由緒ある坐摩神社の渡邊宮司様が来校され、30日の開校100年奉祝祭の習礼があった。場所の確認や今回は本校のお家が神社である高校教頭や神道科の教諭も宮司様の指揮下ご奉仕するのでチーム内の役割分担などを斎行される宮司様自らご確認されたのである。今日は白袴姿であったが当日は「正式の衣冠束帯の装束」で務めて頂くことになっている。何故に坐摩神社かと言うと答えは明瞭で渡邊宮司は一般法人の「大阪国学院の理事長」であらせられるからだ。「浪速と大阪国学院との関係は??」 


実は本校の歴史は100年よりも長い。「創立の芽、源」が出た時を言う考え方もある。大学などではこの「創基」という考え方を取るところも多い。さすれば本校は明治15年11月4日に開設された「皇典研究所大阪分所」がスタートした時機を取るという考え方でも良い筈だ。ちなみにこの年、明治15年明治天皇は児童生徒に日本の道徳を明らかにして「幼学綱要」を命じ、まとめられて、これが明治23年の「教育勅語」の煥発に繋がっている。明治維新を成し遂げ我国は前途洋洋「坂の上の雲」の時代であった。


この皇典研究所は明治41年に発展的に「大阪国学院」に名称変更し、大阪では夕陽丘に校舎を定めて「神職の養成機関」であると同時に「神道精神鼓吹の場」として今日まで存続してきている。現在の大阪国学院は本町の大阪府神社庁ビル内に移転している。

 この大阪国学院こそ「本校生みの親」であり、「主筋」なのである。本校はこの財団法人大阪国学院から分離独立した学校法人なのである。それが「大正12年4月30日の旧制浪速中学校の開校の歴史」に繋がる。だから100周年の奉祝祭は是非とも大阪国学院の理事長である坐摩神社の渡邊宮司にお願いしたのである。それが筋と言うものであり、人間の情だと私は信じて疑わない。私はこのような関係論を大切にしたい。私が着任した当時の大阪国学院理事長は大阪府神社庁長、大阪天満宮宮司の寺井種伯先生でこの方に私は招聘された。「木村さんで駄目だったらこの学校を閉じる」とまで言われて私は決死の覚悟で学校改革に取り組み、教職員の理解と協力で「復活」した。そして次の大阪国学院理事長が坐摩神社の渡邊宮司なのである。本法人の有力理事を長い間お勤め頂いている。 


従って本校には生徒向けの学校行事上の創立記念日は5月1日としているが、正式には創立記念日としての記録は全く無くて前日の4月30日を開校記念日と言うのが適切なのである。源の元の皇典研究所大阪分所を「創基」に捉えれば本校は4月30日が開校100周年であり、創基141年になる。しかし歴史の長さなどは考えれば単なる「通過点」であり、大切なことは「今とこれからの100年」である。4月30日の奉祝祭が終われば100年は過去の話となる。