2023年4月3日月曜日

高野山遺跡本山「観心寺」、神も仏も有難きかな

 「観心寺」は、大阪府河内長野市寺元にある高野山真言宗の遺跡本山の寺院である。山号は檜尾山、ご本尊は如意輪観音様で国宝であり、金堂も又大阪府下で本堂として最古の国宝建造物であり、とにかく国宝がオンパレードの極めて由緒ある国内トップクラスの重要なお寺さんである。新西国三十三箇所客番札所であり、大阪みどりの百選にも選定されているくらい美しいお寺だ。観心寺は、文武天皇の大宝元年(701)、役小角によって開かれ、初め雲心寺とよばれていた。その後、平安時代の初め大同三年(808)に弘法大師空海が当寺を訪ねられた時、境内に北斗七星を勧請され、弘仁六年(815) 衆生の除厄のために本尊如意輪観音菩薩を刻まれて寺号を観心寺と改称されたと言う。 


特に観心寺を語る時は「大楠公(楠木正成公)」を抜きには語れない。幼名「多聞丸」と称した正成公はここ観心寺中院で8歳から15歳まで仏教や学問を学んだと言われる。後醍醐天皇 の鎌倉幕府の討伐に加わり、赤坂城、千早城で奮戦して後醍醐天皇の勝利に貢献した。後醍醐天皇の建武中興の立役者である。建武政権の崩壊後は足利尊氏と争い、摂津の湊川の戦いで破れ戦死し、首級は京でさらされた後、菩提寺のここ観心寺に埋葬され、首塚がある。楠木正成とその一族の、私利私欲よりも民や国を優先した生き方は、江戸時代に流行した太平記や日本外史に描かれて、江戸時代後期には日本で最も尊敬される人物となり、吉田松陰、坂本龍馬、西郷隆盛などに影響を与え、明治維新の原動力となったことは良く知られている。 

私は極めて極めて楠木正成公を崇拝しており、その関係から生誕の地である千早赤阪村には校外学習施設である「多聞尚学館」「多聞農園・果樹園」「多聞茶寮」など保有しており生徒に解放して教育の一環として利用している。この度観心寺の先のご住職、現在高野山の金剛峰寺の長老で大僧正となられている永島長老からお誘いお受け「お献茶」への参列のお招きを頂いた。是非にと言われ、そのお言葉に甘えて茶道部の生徒と顧問の先生と共に昨日境内の桜が満開の中を表千家の堀之内宗匠の手前になるお献茶と拝復席、副席と回りながら一日を喫茶の日として過ごしたのである。生徒は初めて見るお献茶のたたずまいと情景を目にして興奮冷めやらぬ感じであった。私自身が長老と同輩の先の大阪護国神社宮司である南坊城宮司様には随分とご厚誼を頂いており、又大切なお孫さんも本校の卒業生でもある。神社神道の学校ではあるが本校は真言密教高野山の仏道、そして大楠公にも深淵な関係を持たせて頂いており、まさしく「神も仏も有難きかな」である。「ご縁」というのは本当に尊い。