今日は雨天の中の「春季例祭」となった。神道にとって雨は悪くは無い。どちらかと言うと歓迎かも知れない。雨で植物は育つ。「校内の桜」はまだ花びらを付けており、「桜流しの雨」は、「散り桜」となり「花筏」となるだろう。日本語は美しい。市内の坐摩神社神職に拠るご斎行は何時もながらきりりとし、静かにそれでいて朗々と「祝詞」が奏上された。新一年生高校900人、中学148人、全校生徒総勢2903名が間違いなく祝詞の中で奏上され、学院神社の大神様に新年度のスタートを寿ぎ平穏無事、学業成就が祈願された。雅楽部と神楽部による「尚学の舞」は荘厳に奏でられ舞が奉納された。雨天につき「回廊」に舞台を用意した。お供えの段の先にはガラス絵の「天孫降臨図」が目に良く入って来る。よくぞ一般教室7部屋分を犠牲にしてまで回廊にしたものだと今更ながら「あの時の決断」を思い出す。決して無駄な空間ではなくて本校の余裕を示しているのが回廊である。それにしても全て自前の生徒による雅楽部と神楽部の奉納は本当に誇り高い。例祭の後は生徒に「直会」の品としてノートブックが神様から手渡された。
まず、最初に1日に着任した新人の教職員をテレビカメラの前で紹介し、早く新しい先生となじみ、教えを乞う様に生徒達に伝えた。そして私は「学院長講話」に入ったのである。春季例祭の意義、直会の意味、そして尚学の舞の由来などから話を始め「勉強することの大切さ」を強調した。祝詞にあった「ともがらと睦みなごみて,身健やかに、自己の研鑽に」の意味をかみ砕いいて諭し、みんな仲良く頑張るように激励をした。時に手振りで又立ち上がって、入れ替わり立ち替わり、視点を変えて「熱く語る」のが私の特長である。歳を取ってくるとついつい話が長くなるものと自分ながら警戒しているが、言いたいこと、伝えたいことをパンチを持って話すのが大切だ。何を言っているのか分からないようでは人の前で話す資格は無い。生徒や教職員の前で話せなくなったら私も終わりだ。私の責任は意味ある、意義あることを生徒や教職員に熱く語ることである。