2024年7月31日水曜日

本校は教育という営為の総合サービス産業であると心得よ!

 今日は「浪速高校1学期の終業式の日」であった。中学は既に20日に終わっている。一つの節目を迎えたことになる。“ふしめ”とは実に良い日本語だ。木材や竹の、節のある所、また比喩的に、物事の区切りとなる大事な所であると日本人は良く使う言葉だ。「人生の節目」とか。同じような使い方で一区切り、一段落とかあるが節目の方が断然良い。日本語って素晴らしい。本校では重要な儀式のある時はまず学院神社の大神様に1学期の終了を「奉告」し(報告ではなくて)全高校生と共に一斉参拝を行う。これが節目であり、神前奉告の儀式と言う。報告と感謝の意を伝えて、部屋に戻って「学院長講話」になる。その後私は退室して高校校長の手による終業式となる。全ては流れるように進んで行く。これがまた大切な事である。モタモタしていては神様に申し訳が立たない。 




学院長講話では1学期が無事に終えたことをまず寿ぎ、生活指導上の注意を行い「駄目な事は駄目」だと強調する。その後一転して楽しみのある話に転換する。今日は2学期から始まる「3S(サタデー・サムシング・スペシャル)」に言及した。その後2学期のハイライトである「秋季例祭・浪速祭」について生徒の作成したポスターを使って気分を盛り上げて行く。そして最後はもう一度夏休み期間中の行動について注意喚起を行って学院長講話は終えた。勿論この間にパリオリンピックの日本選手の活躍、コロナが大感染していること等を交えながら生徒の頭に残るような話し方と展開を常に考えている。これらは重要な学校設置者としての責務としてのトークやスピーチであるが別の云い方をすれば「サービス」である。 




「私立学校は一種のサービス産業」だと考えればより理解は深まるだろう。公立学校とは根本的にこの点が違う。公立を避けて私立を選択してくれる受験生や保護者の期待は公立とは異なるものを求めているからである。それは何か?私は即座に「それは総合サービス!」と応える。人はスーパーマーケットに食料品や日用品を買いに行くが何処のスーパーでも良いとは考えていない。新鮮さ、品質、値段、店舗の位置と美麗さ、清潔さ、従業員の服装、言葉遣い、誠意ある対応等々を暗に厳しく評価し、買うところを決めているのである。駄目だったらすぐにお店を替える。そこに躊躇はない。 

「私立学校は民間企業」である。売り上げを伸ばしコストを切り詰め、出た利益の一部で給料を受け取り、教職員は自分たちの生活を護り家族を養う。残余資金は教育環境の更新を常に行い、生徒や教職員への還元も常に継続して行わねばならない。臨時の特別の褒章ほど人を喜ばすものはない。それも資金余裕があってこそ成り立つ話だ。お金が無い学校では教育環境の改善も教職員への待遇改善も、生徒への激励金や褒賞金も出せない。

 


「1学期の終了に当たって全教職員に告ぐ」。浪速改革で生徒は常に右肩が上がりで伸びてきて今や全校生徒は3080人になんなんとしている大阪トップクラスのマンモス校になったのはこれを狙ってきたからではない。「浪速学院のサービス」が評価されて結果として今の状況になっただけの話だ。これも明日の事は誰も分からない。良い評判は一朝にして落ち、悪い評判も直ぐに拡散する。受験生に選択して貰える学校への道のりは遠く険しい。16年間も必要とした。そして今漸く我々は今の状況を勝ち取った。この状態をキープして行くのは今まで以上にしんどいことだが、我々はやらねばならない。追われるものより追うものが強い。「本校は教育という営為の総合サービス産業だと理解せよ!」

2024年7月30日火曜日

学校のクラブ活動って本当に面白くて素敵だ!

 昨夜、結構遅い時間帯で、多分20時前くらいだったか、情報企画部長のH先生から珍しく私の家に電話があった。声は幾分、興奮したような感じであった。「先生、勝ちました、新記録です・・・」等々だった。分掌の情報企画部長としてではなくて本校陸上競技部の顧問としての報告だった。九州福岡で開催されている「高校総体、即ち2024インターハイにおいて浪速高校3年の奧野選手が女子5000メートルの競歩で優勝」した報告であったのだが余程嬉しかったのだろう。今の時期、パリオリンピックの記事もあって共同主催の読売新聞でも扱いは小さいが、彼女の所属と名前、それに記録がしっかりと全国紙に載っているのに目を通すのは嬉しいものだ。ネットでは「大阪インターハイ/女子5000m競歩、 奥野 紗(大阪・浪速高)世界で戦うなにわの新星大会新で優勝!」とあった。 




父君が大阪府の陸上の強化コーチでもあり、「英才教育」と言うのか、本校でメキメキ、強くなり今やこの競歩の世界では「日の丸のゼッケン」を付ける期待の星なのである。私はこのような選手に対しては「応援」を惜しまない。それが私の主義である。「浪速に入って強くなった」と言って貰えるような支援をすることが私立高校、浪速高校の「腕の見せ所」だと思っている。冬には防寒オバーコートを贈り、今回もインターハイ優勝を願って激励金が規約によって出ている。これらの結果が昨日福岡で証明された。正直に言えば私も勝ったということだ。次の試合は8月末にペルーのリマで行われる「第20回U20世界陸上競技選手権大会の女子10000mW(競歩)」に日本代表として出場することが決まった。今度は世界チャンピオンを期待したいと思う。 


同じように今日は先の春の選抜で全国優勝した空手道部に遅れていた「道着」の授与式があった。併せて校長からインターハイへの激励金の授与もあった。本校では全国優勝は理事長からの褒章、激励金は校長ら授与と決めている。大阪代表として近日中に佐世保に向かって一行は旅立つ。勿論全国優勝しかない。勝てば「春夏連覇」で過去新記録の回数を誇る浪速高校の歴史を又塗り替えることになる。連覇を果たせば私は「祝勝会」を開いてやりたいと思っている。結果は時の運ともいうが、ベストを尽くして天命を待てと私は選手諸君に伝えた。 



午後3時からは堺に新しく出来た大型ショッピングモールのララポートで珍しい催しがあった。堺消防本部が近畿圏の消防音楽隊を集めて啓蒙活動の企画をやるので本校の「津軽三味線部」に出場して欲しいと過日幹部の方が本校を訪ねて下さり依頼された。余りこのような校外での演奏会は少ないから私は「二つ返事」でお請し、今日がその当日になった。正直「大丈夫かな?」という気持ちもあって数日前には学校で事前の予行演奏会をやって貰い腕を確かめた。結果は、難しい津軽を若者はいとも簡単?にものして結構聴かせる演奏になっていた。曲目は津軽じょんがら「六段」と「千本桜」であるが結構難しい演目である。 



ララポートでの本演奏は一杯のお客様の前で立派に演奏してくれた。素晴らしかったと思う。それにしても消防隊の味なご配慮で、本校PRの動画を流して下さり、これは多くの聴衆の中で大いに有難かった。この津軽三味線部はまごうことなく私が創設したクラブで、理由は他校に多くないと言う理由であるのと私自身が大好きだからだ。高価な津軽三味線も沢山揃え、外部指導者に学校に来て貰い指導を続けて来た。大体学校の先生が津軽三味線が上手く弾けるなど聞いたことはない。しかし私は顧問の先生にもランクが一段上の三味線を購入し、貸与して「上手くなって欲しい」と発破をかけた。このO先生も乗り気になって今や徐々に上手く弾けるようになっている。このように顧問の先生もただ生徒の傍に居るだけではなくて「自らが一からやる」という事が教育的効果を生むのである。






2024年7月29日月曜日

高1が戻り、今度は中1が伊勢に!

 通常の授業がある時に比べて、終業式の後が、何か気忙しい気がする。余計にこの天気だから大変だが、学校としてはこの時期が最も重要な行事やクラブ活動が山場であり、私としては全身に気合が入る。今日は中学生1年生130人が伊勢に向かった。「伊勢HR合宿」と称して2泊三日の宿泊合宿で本校が神社神道の学校であると言う事を体感して貰い、友達と友情を育み、団体行動の原則を身に付けて貰う為である。外宮、内宮、倭姫宮始め多くの神社をお詣りし、ポイントは皇學館大學の渡邊教授から「道徳」について特別授業がある。先生は知る人ぞ、知る道徳教育の泰斗であり、本校とは長いお付き合いがある先生である。高校と同じく「校長講話」を入れている。 


私が着任した当時は中学生も伊勢修養学舎として「禊」なども入れた高校と同じフル企画としていたが、まだ小学校6年生気分の抜けていない中学1年生を考えると禊はリスクが高いと判断し、私は止めさせた。この案に当時の中学校のPTA役員と私は少しだけ対立したが押し通した記憶が今でも鮮明である。浪速中学の生徒は浪速高校に進学して伊勢修養学舎でもう一度伊勢に来られるチャンスがあるから、これで良かったと思っている。私は出発前の生徒を激励し、校長先生にどこかの昼食か「おやつの時間」でも良いから「伊勢うどん」を生徒に食させるように神宮会館に頼んだらどうかとサジョッソンした。中学生は可愛い。 



恐らく名阪道の何処かで伊勢から戻る高校4班を載せたバス6台と伊勢に向かう中学生を載せたバス4台がすれ違ったに違いない。このようなことを想像するのは心地良くて、まさに理事長・学院長冥利に尽きる。予定通り、最後の4班を乗せたバスが12時30分頃から順次、東征門を入って来た。私は大手を振って出迎えた。これで今年の「伊勢修養学舎」も無事に終わって「ほっと一息」である。特に960人を4班に分けて実施したのだが、所謂「通し」で9日間、ずっと伊勢に滞在してくれた校長、副校長、学年主任、それに神道科の教諭2名、帯同カメラマン2名の7名には「頭が下がる思い」だ。仕事と言えば仕事だが特に今年は蒸し暑い中で家庭を犠牲にして無事故でやり抜いてくれた成果を大としたい。帯同カメラマンは中学にも帯同するのでお帰りは31日となる。「ご苦労様」と言って迎えて上げたいと思う。 




本校の教務内規では必ず高校3年間の間に一度は伊勢神宮にお詣りする学校行事を「学校設定の必修科目」としているので参加出来なかったら卒業証書を出すことは出来ない。だから今年も過年度生が幾分入っている。このようにして伊勢修養学舎は71年間も続いている。主軸の校長以下5人の先生方の正式な帰校報告を受け、私は慰労の言葉を述べ、伊勢の干物と伊勢うどんを手渡して気持ちを表した。良くやってくれたと思う。伊勢が終わってようやく本校は「夏休み気分」となる。今ドンドンとクラブ活動の戦績が入ってきている。今朝は吹奏楽部が地区大会で金賞をトップ通過したと顧問の先生が報告に来てくれた。8月9日に大阪大会がある。運動部も、空手、弓道、テニス、ゴルフ、陸上の競歩、体操も全国大会に出場だ。浪速学院は今、「天と同じで燃え盛っている」。




2024年7月27日土曜日

「1に努力、2に努力、3,4が無くて5に努力」

 朝10時に学校を出て、事務室、Kさんの運転で京都に向かった。昨年は主担当の当時3学年主任だったI先生の大きな車に乗せて貰って京都の中京区河原町の「お宿 いしちょう」さんに行ったことを思い出したが今年は通常に戻った。基本的に理事長が教員の車に乗る事を私は潔しとしない。秘書役の事務室勤務の職員が事故などの時を考えれば好ましいと思う。この観光旅館は知る人ぞ知る幕末の俊英木戸孝允こと桂小五郎の旧居跡にある格式高い旅館である。女将の出迎えを受けて25日から「大学受験強化合宿」をしている生徒35人への「激励訪問」であった。1昨年から利用している旅館でサービスには満足しているから今年もここにしたのである。諸物価値上がりで安価な本校施設の千早赤阪村の「多聞尚学館」でした方が良いのではと担当の先生方に水を向けたが、たまには環境を変えるのも良いかなと思い了承した経緯がある。

「お宿 いしちょう」は元来、「石長」と書くらしい。当主の姓「石井」の石を取り、「長」は長州藩の長を貰って、当館の氏神神社の宮司よりのお言葉で「長」は長く栄える意味が含まれているとの意味合いから、「石」と「長」で「石長」の名が刻まれるようになったと女将から聞いた。読み方も、本来なら「いしなが」か「せきちょう」が正しいのですが、この時のお言葉が「お宿 いしちょう」とするようおおせつかり、現在にいたっているとの事だった。確かに「長」の漢字には長い、長寿、成長,とこしえ等々良い意味が多い。頑張っている生徒達には格好の良いお宿かも知れない。


このように夏の間は修学旅行で京都に来る学校も少ないから結構良好な宿泊場所が取れる。広い館内は大学生とか本校みたいな高校生だから安心であり、高校3年生の中で偏差値の高い大学を目指している生徒が今日から8日間、毎日「受験勉強」と闘う。教員も入れ替わり京都入りして指導をしてくれる手筈で、校長は伊勢だから校長訪問は31日である。生徒への差し入れとして「焼き立てパン」を山ほど持って来た。話した内容は一に「努力」、二に「努力」、三四が無くて五に「努力」である。時に私自身の高校生時代の話を交え、これからの人生へのキックオフとなるような学習合宿となるように幅広く話した。時間は30分、生徒は受験生だからその目は輝きしっかりと聞いてくれた。


明治維新の元勲として知られる木戸孝允の旧居跡に建てられたこの旅館であるが、孝允は幕末には桂小五郎と名乗り、その妻が元芸者の松菊である。夫唱婦随、仲の良かった孝允は何度も彼女に救われている。47歳と言う若さで早世したが、とにかく大久保利通、西郷隆盛とともに維新の三傑の一人に数えら、私はここにくると木戸孝允の実物の写真や直筆の手紙などを見るのが楽しみである。生徒たちにもこの宿は京の風情溢れるなかにある木戸孝允ゆかりの宿だと話したが恐らく頭には残っていないと思う。しかし何かの調子にこの旅館の事がこれからの彼らの長い人生の何処かにおいて出て来るであろう。近代国家となった我が国はここ京都の地を中心に、多くの若者の熱量で維新が成就したのであり、「若者の特権は自分を変え周囲を変えることが出来る」と話したがこれも幾分難しかったかも知れない。まだ頭には志望する大学への合格しかないからだが、頭の片隅には少しでも残れば、こちらは本望だ。

2024年7月26日金曜日

大阪天満宮「天神祭」

 「八軒家浜船着場」には少し早くて夕刻5時には到着した。旧淀川(大川)左岸に設けられた船着場・八軒家浜(はちけんやはま)は2008年に開設された観光用岸壁である。この歴史ある船着き場には大阪天満宮の夏祭りである「天神祭り」に天満宮の宮司様からご招待を受けて乗船できる「供奉船」としての「屋形船」2艘だけが接岸されていた。今回この供奉船に乗る機会を得たのは私とM常務理事の二人であり、私は都合3回目であったが常務は初めてと聞いた。船のおかみがまだ出るまでには1時間もあり、乗って待っていると横揺れで船酔いしますよと言われ、時間調整して乗り込んだ。そして43人の定員一杯を乗せた船は6時の定刻から大分遅れて岸を離れた。 

江戸時代には、同地は船宿などが8軒並んでいたことから「八軒家浜」と呼ばれるようになり、この地は京の伏見と大坂を結ぶ「三十石船」と呼ばれるターミナルとなるなど、淀川舟運の要衝として栄え、このころの八軒家浜の様子は多くの文芸・美術作品に描かれている。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」には、舟を下りた弥次郎兵衛と北八が「大坂の八軒家」で上陸する場面がある。また摂津名所図会「八軒屋」、浪花百景「八軒屋夕景」で知られており、その風情は今では周辺、ビル群で囲まれていても残存している。私は長く続いた江戸時代と激動の幕末史を彩った天満橋周辺、京と大阪の大動脈であった淀川の終点であるこの当たりの地に大変に心惹かれる。歴史の変遷を強く感じる。 

「天神祭」であるが、日本各地の天満宮で催される祭りでる別に大阪だけの祭りではない。ご祭神の菅原道真の命日にちなんだ縁日で、25日前後に行われる。しかし各神社で行われる天神祭の中では、「大阪天満宮を中心として大阪市で行われる天神祭」はご存知のように「日本三大祭の一つ」として特に有名である。昨日の25日の本宮の夜は、大川に多くの船が行き交う「船渡御」が行われ、天満宮と深い繋がりのある学校法人のトップ2名が「開校101年目の船渡御」において供奉船への招待を受けたのだから有難い話だ。「神霊をのせた御鳳輦奉安船」に、お囃子をする船や供奉船などが従い、天神橋のたもとから出航して造幣局や中之島のある大川を遡り、反転して下ったルートである。 ビールや清涼飲料など飲み放題、それにお椀物、幕の内懐石料理、デザートなど宮司様「心づくしのおもてなし」を受けて大川を宮司の乗られている船の後からまさしく供奉して参った。 




目玉は夜空を焦がす「奉納花火」であり、3か所から時間を調整しながら3000発の花火を愛でた。 大川に映る篝火や提灯灯り、花火などの華麗な姿より「火と水の祭典」とも呼ばれているが、100艘ものお船が行き交うたびに「打ちましょう」の掛け声で「大阪締め」から手を打つ音が水面に響く様子は「まさに大阪を代表する祭り」だと感じた。陸には行きかう人、人、人で壮観な眺めであったが大川の上も警備艇などが行きかい、出発の八軒屋浜の船着き場には予定を大幅に遅れ9時40分の接岸となった。蒸し暑くて必ずしも快適な船上とは言い難かったが「天神祭りの夏はこのようなもの、夏は暑いもの」だと思い、100万人以上の人々の間を縫って自宅に急いだ。


2024年7月25日木曜日

灯台下暗し、類は友を呼ぶ!

 建設中の新中学校棟の玄関、「西関門」を入って直ぐの左側の壁面は幅が横5m、縦に3mの壁面があり、ここにはこの校舎を象徴する「芸術的な古事記神話」の木彫り彫刻作品を飾ることは当初から決めていた。テーマは「八岐大蛇」である。この神話世界の重要な「悪役スター?」を是非ここに飾りたいと思っていたが、その彫刻を何方に頼むか、思案にくれていた。当初は「この人は良いかも?」と考えていた人物は居たには居たが、結局ご縁がなく、正式にお断りして新たなる彫刻師を探し出さねば成らなかった経緯がある。しかし「類は友を呼ぶ」の例えの如く、今や浪速ファミリー(類)の一員でもある石川県白山市の「浅野太鼓」さんの浅野社長に相談してみると、簡単にこの問題は解消した。昨日の事である。 

過去共に仕事をした仲間を類とすると、この類には気の合った者や似通った    友が自然に寄り集まってくるもので、まさしく「灯台下暗し(とうだいもとくらし)」であった。灯台のすぐ下は暗いところから、身近な事情はかえって当事者には分かりにくいとの例えであるが、私は既にこの方を存じ上げていたが、当初から遠方であり、ご年齢を考え、意中の人ではなかった。しかしまさしく灯台下暗しであった。浅野社長は昨日、日本遺産「木彫刻のまち 井波」から「井波彫刻」の大家である畠山工房の畠山親子先生をお連れしてのご来校になった。初めて学校に来て頂いたことになる。畠山先生は昨年の開校100周年時に購入した「3尺大太鼓の土台脚に上り龍」の彫刻を浅野太鼓さんの請けとして制作して取り付けて頂いた経緯があった。まさしく類は友を呼ぶである。 

建設中の現場をご案内し、次に神社神道の学校としてのアイデンティティの数々、「古事記序文」の書体、ガラス絵の「天孫降臨」、壁画の「天の岩屋戸」等々をご案内し、私の部屋でまず古事記の本を差し出し、概要の説明から入っていたのだが、全くの杞憂であり、私は恥をかいたと思った。具体的な話に入ったが、打ち合わせの時間は極めて短時間で終わった。畠山先生は「八岐大蛇」伝説を詳細にご存知であり、過去兵庫県の高砂市の太鼓台にこの八岐大蛇伝説を製作した経験がお有りであった。「やりたい」との意欲は満々であり、ごちゃごちゃ言わず施主に添った対応をされる。とにかくその時の下絵をご持参して下さっており、これを観た私は言葉を失った。本当に見事な出来で、迫力もあり、美術的にも美しく、主役の八岐大蛇、これを退治したスサノウノ尊、草薙の剣、将来お妃になられるクシナダヒメ等々フルキャストの絵巻物が私の眼前にあった。私はその場でお願いし発注した。 


畠山先生は今年86歳になられると自ら言われ、人生最後の大きな作品に巡り会えて「精魂込めて造る」と力強くのべられ、私に握手を求められた。職人には納期が命で納期のタイミングを逸したらその作品は意味が無いとまで言われ,井波に帰って直ぐに下絵の制作に取り掛かると目はギンギンに輝き始め、とても86歳にはお見えにならなかった。「理事長は新しいものがお好きですね、私もそうです!」是非学校の一画に浪速中学校のホットスポットとして生徒を見守る「八岐大蛇神話」を内外の評判を呼ぶような新しい感覚で作りましょうと言われるのである。これは世間一般の「職人気質(かたぎ)」ではない。私も「学校作りの職人」を目指していたが意を強くした。あくまで生徒の為にこそ存在する私立学校経営の職人だ。昨日畠山先生にお会いして、この道で間違いはないと確信した。