あれは今から12年前の11月26日であった。著名な社会学者、教育学者の竹内洋先生と二人きりで夕食を取りながら、色々とお話を伺ったことがある。私が現在の勤務先に赴任した3年後であった。当時関西大学の教授であられた先生の著作に感銘を受けた私は是非竹内先生の謦咳に接したく大学を通じてアポを戴き、実現の運びとなった。私は自分の書いた教育改革に関する小論文を事前に見て頂いて、その日を迎えたのだが、先生は「しっかりとした文章を作るね」とだけ言ってくださったが、中身の論評は無かったと思う。その時に先生から著作の一つである「学問の下流化」というタイトルの書物に私の名前を書いて頂き、プレゼントして下さった。それは今でも他の著作「教養主義の没落」「立身出世主義」「大衆モダニズムの夢の跡」と共に私の大切な蔵書である。
お話の中で今でも強烈な印象として残っているのが「学校の先生が教員と呼ばれ始めて」学校の力は衰退していったのではないかとの意味合いのお話で、旧制高等学校以来、「学校の先生は教師と呼ばれていた」、云々であった。さも竹内先生らしい切り口で学校と言う舞台における生徒に教える立場の職業に従事する職業人の本質を見事に掻っ捌いた感じがした。学校で先生、先生と呼ばれている人びとは果たして「教員か教師か?」、それが問題だ!実は学校の先生にはもう一つ別の呼称があってそれは「教諭」であるが、これは普段は余り使われない言葉である。「教諭」とは、「教えさとすこと」という意味の言葉で、一般的には「教員免許を取得している、幼稚園や小・中・高等学校などの正教員」という意味で使われている。教諭の「諭」という字は、「はっきりわかるように教える」を意味しており、大学の教授の「教え授ける」とは違うのであるが、使われない教諭の呼称と共に、最後は教師も使われなくなり、単なる教員の集合体に学校は流れて行ったとなるとこれは大問題である。
「教員」とは、「学校に勤務し、教育に従事する人」という意味の言葉であり、単に従事する人であり如何にも「無機質な響き」がする。「私立高校の教員として働く」「教員採用試験に合格した」などのように使われている。「教員」の「員」という字は、この場合「かかり」「かかりの人」などを表しており、前述した竹内先生は「員では駄目で師でなければならない」と言われているのである。係の人である教員はプロフェッショナルではあるまい。単なる「かかりの員数」であり、学校ではあくまで教科を教える超専門職として「はっきり分かるように教える師」として初めて社会の尊敬を受ける学校組織だと私も考える。
学校の教師は生徒に「教え諭す」のが仕事であり、これが全てである。極論すれば分掌も部活動指導も付帯業務であり、あくまで国語・社会・英語・数学・理科の基本5科目をしっかりと3年間教え、大学に送り出すことが本校のミッションである。3月1日、3日、6日と3回に分けて高校校長室で私は教科長、担当教諭から今年の「大学入学共通テスト」の詳細な分析結果を聞いた。これが校長にとって最も重要で神聖な業務である。だから敢えて私の部屋とはせずに5階の校長室にて場所を移して行ったのである。暗にシグナルを新校長に送っているのである。この学校に来て以来私はこの3年間の教科指導の集大成を聞く事が楽しみでじっくりと耳を傾け、思うところ、感じるところを忌憚なく先生方に話してきた。一言で言えば「浪速高校の教員ではなく一目も二目もおかれる卓越した教科指導の教師になって欲しい!」と言う事だ。今回の報告をじっくり聞いて本校は教師への道を歩んでいる先生が多いことを実感し嬉しくなった。