2019年2月19日火曜日

吉備の国とは

「吉備」とは古代に於けるこの地方の名前である。今の岡山県全域よりも大きい範囲を有し畿内や出雲国と並んで勢力を持っていたといわれ、巨大古墳文化を有していた。また、優れた製鉄技術があり、それが強国となる原動力であったとされる。『古事記』中巻、孝霊天皇の段などに兵庫県の加古川以西が吉備であると捉えられる説話があり、加古川を国境としていた時期があると考えられている。


吉備の国が大和政権から衰退を余儀なくされ、その後吉備国の呼称は「備前、備中、備後、美作の国」となった。その中心にいた人物が昨日のブログ「トンボ」との関わりの5世紀の雄略天皇であった。歴史上この天皇ほど謎めいて、闘い好きな天皇はいない。地域国家連合体であった当時の国家をヤマト王権に臣従させて中央集権を進めるために、最大の地域政権の一つ吉備に対して「反乱鎮圧」の名目で屈服を迫った。吉備下道臣前津屋の乱(463年)と吉備上道臣田狭の乱(463年)の「反乱鎮圧」を成功させてヤマト王権の優位を決定づけたのである。


今日は残念ながら雨の吉備の国となったが、まずは備前の国を訪ね、今に伝わる「備前焼」の窯元を見学した。随分前に行った事はあり、日本六古窯の一つで、古代より有名である。前述したように、古代この地方に製鉄技術があったこととは良い粘土があったからである。この幸から備前焼は発達した。古代、中世、近世ではクロネコヤマトなどの宅配便などはないため、信楽、瀬戸など近くに良質の粘土がある所に焼き物は発達したのである。千利休も茶会で備前のお茶碗を使ったとの茶会記が残っており、釉薬をかけない焼締の陶器を「侘び寂び」世界にいざない、今日に伝えた最大の功労者は利休ではないか。