2019年2月21日木曜日

人間国宝 陶芸家 「伊勢崎淳」先生

ブログ「理事長・学院長アラウンド」を読んで下さっている読者のお方は「伊勢崎淳」氏と言うお名前をご存知か?焼き物、「陶芸の世界」に些かでも通じておられれば直ぐに、お分かりだろうと思うが、実は今回の岡山出張で私はこの伊勢崎先生と2時間もの間、尽きせぬ話題で懇談する機会に恵まれたのである。我が人生にはこれまで多くの僥倖があったが、この私にとっては大事件とも言うべき、簡単にはお会いすることの出来ない「焼き物界の至宝とも言うべき人間国宝」と知己になれたのである。 




伊勢﨑淳、岡山県伊部市に陶芸家伊勢崎陽山市の二男として誕生。昭和11年(1936)2月20日の事で何とお会いしたその日は御年83歳のお誕生日の前日であった。昭和11年のお生まれと言えば私を引き立ててくれた大阪天満宮の寺井名誉宮司様と同じ御年である。この方もまだ矍鑠として神社本庁の長老として大きな責任を果たされているが、伊勢崎先生も毎日工房にて作陶の日々だと言われていた。失礼ながら両氏ともに、この御年で素晴らしい仕事を成されている。「人生100年時代」を痛感した。私など「疲れた、疲れた」と言っており、恥ずかしい限りで、両先生に申し訳ない。「よし、まだ頑張るか!」という気持になった。 



 

今や最高水準の芸術家とも言うべき、世界に冠たる日本の陶芸家で、21世紀で最初に誕生した「備前焼」の人間国宝である。1959年、岡山大学教育学部特設美術科卒業。1960年兄の伊勢﨑満氏と共に、姑耶山古窯跡に中世の半地下式穴窯を復元、1966年、日本工芸会正会員。1978年、岡山大学特設美術科講師に就任,1998年、岡山県重要無形文化財保持者に認定された。社団法人日本工芸会理事および日本工芸会中国支部幹事長に就任するなど斯界の発展に大きく貢献。2004年9月2日、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され今日に至る。

今回の出張の目的は新しく取引が始まった岡山市の大手制服会社の「トンボ(株)」さんへの公式訪問であったが、この業務を無事終えた私は翌日の19日(火)に伊部市の陶芸材料店を訪ねて備前の粘土を求めることを考えていた。この時使ったタクシー会社の運転手さんが、備前の出身で「伊勢崎淳先生を知っていますよ、お会いになりますか?」と水を向けてくれたのがそもそものきっかけであった。大変に人柄の良い運転手さんであった。人の縁とは不思議なもので、この人のお蔭でこのような機会が持てたのである。 


伊勢崎先生との懇談の内容は多くは書くまい。備前焼の歴史、新しい作陶への試み、失敗と成功の話、社会問題へのご意見等々、あっという間に時間が過ぎていった。さすが岡山大学卒らしく深い知性を私は感じたが「あくなき新しいモノへの挑戦」に感じ入ってしまった。何と先生手作りのお茶碗でお抹茶とお菓子をご馳走になった。先生も「表千家」であり、これまた私を嬉しくさせた。奥様までご紹介を戴き、何と普通は絶対に外部には見せない工房までをご案内戴いた。先生は今、大きな「まな板皿」を数枚作陶されていた。これは大変難しいもので私は「根ほり葉ほり」作陶のポイントを伺ったが丁寧に詳しく説明して頂いたのである。「是非チャレンジするぞ」と決めた。アマチュア陶芸家を自称している私なりに創作意欲がモリモリと湧いて来たのである。

先生の工房 まな板皿の作陶過程



「私は本校茶道部へ何か記念のお茶碗を求めたい」と申し出たら、先生は奥まで下がられ、数個の抹茶椀を無造作にぶらぶらと両手に持って来られた。私は「ひやひや」してその光景を見ていたのである。その中の一個を選び、先生の前に差し出すと、それをつくづくと表、裏と眺められ、「一番、良いものを選んだね」と言われた。更に先生は応接間に置いておかれた12個の「ぐい飲み」から好きなモノを1個、取りなさいとまで言われるので遠慮を知らない私は結構時間をかけて3個選び、そしてそれを2個にし最後に1個を選んだ。先生は又この時も「良いのを選んだね」と言われた。



 

至福の時を過ごし、去りがたい気持ちを抑え、辞去することにした。最後に私は立派なご自宅の裏庭というか、端正な佇まいの庭で「最後の1枚」をお願いし撮った写真は生涯の記念になる。先生は「耳が遠くなったから、電話は携帯が良いから」とおっしゃって自ら「淳、携帯090-0000-0000」と書いてメモに書いて私に下さったのである。「このような事ってある?」。現代陶芸界の巨匠、人間国宝が自らメモに携帯の番号を書いて寄こして下さったのである。先生が箱書きをし、後日送ってくださる桐箱入りの、先生手作りの「備前火襷の茶碗」は未来永劫「本校茶道部の宝物」となるだろう。私は満ち足りた気持ちで新幹線岡山駅に向かったのである。

 
 
 
求めた一品
伊勢崎淳「備前火襷 お茶碗」