2023年5月16日火曜日

開校100周年記念 寺井種伯先生特別寄稿文「木村理事長と浪速改革」

 今回の式典で大きな反響を呼んだのは神社本庁長老、大阪府神社庁名誉理事長、大阪天満宮名誉宮司、(学)法人浪速学院名誉理事長の寺井種伯先生が「開校100周年誌 夢の軌跡」にご寄稿下さった文章であり、私は式典でこの文「木村理事長と浪速改革」に触れた時、目頭が熱くなり、思わず言葉が詰まった。ご体調すぐれぬ中で遂にあれほど楽しみにされていた式典への参加が叶わず、この事を既に思われていたのか、自ら筆を取られ書いて下さった記念誌への寄稿文である。作成の過程で頂いたお電話は数十回に及ぶ。この文章に全てが書かれていた。浪速改革に関して細部に至るまでほとんど全てである。私はこのアラウンドにこの寄稿文を上程することを許されたので少し長くなるがご容赦頂き、全文を載せることにした。寺井先生、本当に有難うございました。まだまだ浅学菲才の未熟者ですが、ご長寿をお祈りし、今後とも宜しくご指導をお願い申し上げます。 


特別寄稿

「木村理事長と浪速改革」

                                                  寺井 種伯                                                                   神社本庁長老 大阪神社庁名誉理事長

                                       大阪天満宮名誉宮司 (学)浪速学院名誉理事長 

私は現在の浪速学院の状況を見た時に木村智彦氏という人物を引き合わせて頂いたことは「ご神慮」に他ならないと強く思っています。この間の経緯を知っている家内は「良い人に偶然、出会ましたね」と言っていましたが、私は「それは違う、神様のお導きだ」と申しています。大阪の神職である我々は今、木村さんの成し遂げた事績を通じて「物事を変えるということ」をまざまざと見せつけられた思いの中にいます。そして現在の学校の状態を見た時に「浪速学院の奇跡」とまで思っています。本誌は学校事務局の要請に応じて私の記憶にある木村さんの発した言葉を織り交ぜながら「浪速改革」について記したものです。 

私は現在満で89歳になります。学校法人の理事に就任したのが平成5年(1994)で平成28年(2016)、新校舎の竣功を見て理事を退任し、要請により名誉理事長となりました。この間29年間、学校を見続けてきたことになります。初めて木村さんにお会いしたのは平成18年の暮れでした。藤井寺の道明寺天満宮の当時の南坊城宮司と共に大阪天満宮の社務所内の応接室で初めてお会いし、お話を聞いているうちにその話の理路整然としたパワフルな話しぶりに少し驚いた記憶があります。今から16年前の事です。 

勿論木村さんのお名前が最初に出て来た時、予てよりお付き合いさせて頂いていた清風学園の平岡理事長先生から、木村さんの府立高津高校校長時代の話を含め色々とお聞きしていました。私からも種々浪速学院の変遷をお話ししました。この時の会談の終り頃には「木村さんにかけてみよう!」と決意し、最後には次のように、「貴方で駄目だったら学校を閉じ、住吉の土地の処分などで先生方への補償云々など」を発言した記憶があります。それ位当時の学校の状態は神社界の望む形からはほど遠いものでした。府内の立派な校長先生の経験者や大学の先生方をそれまでご就任頂いたのですが、結局は成果に結びつきませんでした。勿論当時の理事会側の責任でもあります。 

以上のような経緯を経て、当時は学校法人大阪国学院でしたが、長い歴史で初めての神職以外の理事長と中高校長の兼務の形で木村理事長が誕生したのです。平成18年12月理事会の決定でした。就任と同時に、間髪入れず木村さんは「学校改革」に着手されました。ご着任1年前の平成17年に高校は共学化されておりましたが、中学校は当面「様子見」としていました。しかし木村理事長は「理屈に合わない。即刻、中学校も共学に」と間髪入れずに平成19年から中学校も共学にされました。実は生徒募集に苦労していたので中学の募集停止も理事会側には視野に有ったのですが理事長は「中学校の存続」を決断されたのです。それからは優先順位をつけて全てを変えて行かれました。それが「浪速改革」というものの始まりでした。本当に全てに亘って変えて行かれました。紙面の関係から多くは書けませんが神社の宮司では想像も出来ないスピードとその中身でした。 

ご着任されて2年後の平成21年4月には最初の教育環境整備として千早赤阪村に「多聞尚学館」が竣功されました。着任後わずか2年で廃校となった多聞小学校を当局と話し合い購入され、間髪入れず高校生用の校外学習施設として大改修し、開館式が行われました。この間6カ月という短さで実現したのです。私が最初に学校の式典というものに参加したのがこの開館式でした。過疎の村に高校生が来るというので地元の方々にも大歓迎され、多くの関係者で賑わった式典でした。今でも当時の事が思い出されますが、それ位、多聞尚学館の開館は私にとっても印象深いものでした。私はこの時に「浪速は変わるな!」という予感がしました。この施設は今でも大切な生徒の為の学習施設として活躍しています。

 

そして次に堺市南区釜室に「浪速ふくろうベースボールスタジアム」が平成22年6月に竣工し、翌年の平成23年3月に本校地の「浪速武道館」の竣功祭がありました。8月には「クラブハウス棟」、平成25年9月には「校内グランドの人工芝生化」がなされ、遂に新校舎建設に着手され平成26年「東館」完成、平成27年8月に「中央館」が完成しました。それも至る所に「古事記の世界」を盛り込んだ8階建ての教室面積の広い、豪華な校舎には驚きました。神職には思いも及ばないアイデアでした。とにかく平成27年に木村理事長は就任時に公約として掲げた新校舎の建設を成し遂げたのです。その間わずか8年後の出来事でした。しかし木村理事長は歩みを止めることなく、更に前に進むのです。神社界に一部異なる意見も有りましたが、神社神道の学校として新しい学院神社を創建してこそ学校改革の到達点であり、これこそ100年前の先人にお応えできるのだと理事会で力説されたのを覚えています。 

戦後、昭和14年創建の神社は戦後、解体撤去の止む無きにあたり、開校30周年を迎えた昭和28年に神社界がようやく念願としていた2代目の神社を建造しました。この2代目のお社は理事長の発案で東日本大震災において被害に会われた岩手県大船渡市の松島神社に寄贈され、第3代目となる現在の学院神社が誰の目にもすぐ入ってくる正門前の道路に並行し、高台に「本殿」「祖霊殿」が竣功されました。平成28年3月24日に当時の理事である各神社の宮司が勢揃いして本格的な「上棟祭」「遷座祭」を行いました。大正時代の初代神社を彷彿とさせる現在の神社を目にした時の感動と感慨は今でも私の胸に奥深く残っています。私どもは毎日が神明奉仕の神職ですが、この16年を振り返って見た時に「改革とは」をまざまざと見る幸せに恵まれました。木村さんを語るうえで忘れてはならないことは「神社神道に関して造詣と深いご理解」を持たれていることでした。一度私は聞いたことがあるのですが、両親からの影響ですと間髪入れずに答えられました。神社神道の学校の理事長、学校長がかりそめの形ではなくて心の底から「ご神威」を語るのですから私は大変に嬉しく心強く思いました。

 

例えば平成19年、着任されたその年に神社界で使われている「敬神生活の綱領」を倣って「浪速生活の綱領」と「学院神社拝詞」を定められ、その後これはずっと絶えることなく月度一斉の参拝時に生徒が奉唱しています。それまでは浪速学院でも教職員団体の影響が強くあって我々神職が学校側に圧力をかけたと思われるのを避ける為、神道教育の関する動きは学校の自主性に任せて遠慮していたのですが、理事長は「建学の精神」を世に問わねば私立の存在意義は無いと神道の学校を前面に押し出す方策を取られたのです。春季、秋季例祭、合祀祭も間違いなくしっかりと儀礼通りに行ってくれており神道教育の息吹はより輝いて継続されていることに本学院を創立してくれた先人は喜んでくれていることは間違いありません。又大切な生徒が学ぶ「神道の教科書」を分かり易く改めると提案され、平成19年から検討に着手し平成20年に第1版が発行されています。これらは私を含めて大阪の神職が作成編集したもので「浄明正直・・今を生きる」として使われ現在は第11版まで発行されています。そして圧巻だったのは昭和15年皇紀2600年を奉祝する曲として信時潔作曲、北原白秋作詞の「海道東征」の曲をご遺族の許可を得て学校の「学院曲」として吹奏楽用に編曲し直し「海道東征浪速」が完成しました。そして平成から令和へと御代替わりの令和元年5月27日、初代神武天皇が祀られている橿原神宮正殿前にて吹奏楽部員によって奉納演奏をしたいと理事長から依頼され私が間に立って進めたことも忘れられない事でした。


 
新校舎、新学院神社の竣工後、これで暫くは施設設備の建設は無いかなと思っていましたが理事長は一瞬でも停滞することは後退に繋がると言われ、本格的な「文武両立のウイングの広い学校」を作るとの強い思いから更に教育環境整備に前進されるのです。平成29年11月に、ご本人は「幸運だった、神様のお蔭」と申しておりましたが、堺市美原区に敷地面積11000坪の広大な土地を購入し、ここを「高天原スポーツキャンパス」と名付けられました。この地にまず平成31年4月5面の「八咫烏テニスコート」の建設、そして令和3年「乾坤一擲ドリームフィールド」と名付けたサッカー、ラグビー、アメリカンフットボール、陸上競技用トラックのある総合グランドを建設されました。私も一度現地に赴きましたがそれは少し高校生には贅沢とも思えるような豪華な施設設備です。そして昨年の令和4年には都市型学校のシンボルとしてゴルフ部の為に最新鋭の機器を備えた「産土ゴルフ練習場」を完成されたのです。 

そして令和4年3月、増え続ける生徒の為に教室が必要と判断された理事長は新校舎中央館に連結された別館として3階建ての「NS館」の建設を宣言され、今年3月に6教室が新たに竣功されました。これは仮設ではなく、ICT教育装置が完備された本格的な教室であり、これを加えて高校の保有する教室数は60にもなっています。1学年20クラスの規模ですから驚きます。そして理事長は令和4年の3月理事会・評議員会にて遂に「開校100年奉祝記念事業」としてNS館に連結する地上6階建ての「新浪速中学校棟」の建設を宣言されました。現在の体育館棟にある中学校教室を分離し別棟に新築するのです。これは2年後の令和7年には完成すると報告を受けています。100年前、校舎も無く開校した旧制浪速中学は100年の時を経て住吉の本校地に初めて単独の新校舎が建設されるのです。旧制浪速中学の創立に携わった先人はさぞ喜んでくださると思います。 

この間の建設投資ですが、当初から資金はなかったわけですが、木村さんのやり方を見ていると「まず生徒の為に教育環境を整備充実させることが先決」としてやってこられました。計画は緻密に練られ、優先順位をまず決められました。数十億円にも上る共済事業団からの融資返済は理事長個人の連帯保証で融資を受け、「生徒数が増えれば何とかなる」と覚悟されたのです。そして今や中高合わせて総勢2900人を超える大規模校となり、共済事業団からの融資残高は15年返済の9年目にして元利合計を最終期限より6年も早く「繰上償還」されました。今や学校法人は「無借金経営」となり、「正味資産」も128億円と言う超裕福な私立学校の状態にして頂きました。この16年間で投じた建設資金は113億円にもなっています。本当に驚愕の経営改善でした。 

私と共に長い間学校を見続けて来た南坊城理事は「木村建設(株)」と冗談めかして言っていましたが、実は理事長は「施設を幾ら豪華に造っても生徒は集まらない!」を口癖のように何時も言われていました。学校の評価は教育の中味であり、それはひいては「良い先生の確保と育成」こそが本当の学校改革に繋がると、何時も理事会や評議員会で強調されていました。木村理事長は単に前述したハード面だけではなくて、新しい教育の在り方を模索しながら若い先生方を採用し、叱咤激励しながら進められたのです。現在専任と言われる先生方のほぼ90%は木村理事長が採用された若い先生方です。今でも強烈に覚えているのが、着任して直ぐに15人の先生方に早期退職をお願いする為に退職金の上乗せを図りたいがお金が無い、どこか金融機関を紹介して欲しいと申し出があり私が対応したことも今となっても思い出深いことでした。木村理事長がつねづね言われている事は自分の行ったことで敢えて言うならば120人を超える若い教師希望の人々に専任教諭として安定雇用の機会を与えたことが一番誇らしいことですと言われています。 

16年前に理事長が着任時に掲げた目標は「IT武装されたシティ・スクール」でしたが、この目標に到達する為にはITに強い若い先生方が必要だと考えられたのです。今や浪速の先生方はグーグルの認定資格を有した先生ばかりと聞いています。今や全館Wi-Fiの「ICT教育先進校」として全生徒、全教員がタブレット端末を駆使する学校として完成されています。その他、学校行事、科コースの統廃合、教職員の働き方改革など同時並行で様々なソフトウエア分野での改革を進められました。中でも高校生の修学旅行先は国内旅行からロンドン、パリ、ローマ、ベルリン、ニューヨーク、ストックホルム等、先進国に行かせたいと今から10年も前に理事会で提議されたのです。昔を知っている私には考えられないことでした。 

「もう廃校も覚悟した学校」がこのようにして息を吹き返しました。この間、重要な事案は神社に足を運んでくれて相談されまし、様変わりした理事会・評議員会に関して触れておきます。それまでの天満宮での開催から全て学校で行われるようになり、出される資料がページ数は元より多く、まさに「経営会議そのもの」でした。資料は数値で全てが判断できるようなものになり、年4回の会議に出席するのが楽しみになりました。理事や評議員の出席率は当然高くなりました。管理職だけではなくて時には一般の先生方が出席して報告を受けるのですから私は「学校全体が燃えて来たな」と感じました。ある時知り合いの教員が私を訪ねてきて「理事長は厳しいところはあるが、行きつく目標が明確で、必ず実現される。これならこの人について行ける」と聞いたことがありました。

100年前、神社界が大いなる志を持って基本金を持ち寄り、この学校を創立し、その後の艱難辛苦を経験し、学校の整理まで考えましたが、神様のお導きで「木村智彦という人物」を得て今日の姿になったことは間違いありません。私は胸を張って先人にご報告出来ることを大変に喜んでいます。浪速武道館が竣功して間もなく木村理事長は法人名を大阪国学院から大正12年創立当初の浪速学院に戻したいと言って来られました。私は即座に「原点に立ち戻るという事で良いのでないですか」と賛同致しました。 

余りにもスピードの速い、急激な改革について木村さんを心配する余り、やり方に関して私と木村さんの間には「ほんの少しの波風」があった時もありました。しかし「改革には不退転の決意とスピード、そして異論に対しては徹底したトップの説明責任と結果責任」と理路整然と話してくれました。まさに奇跡としか言いようがない現実の教育施設設備が次から次へと目の前に誕生し、背景となる経営数値が全てを物語っています。木村理事長はまず生徒を第一に、そして働いてくれている教職員を大切にする思いが極めて強く、これは私どもに伝わって来ました。それが時に「理事長は厳しい」との話に繋がるのでしょうが、これらのトップの求心力と指導力があってこそ学校と言う組織は発展するのではないでしょうか。そうでなければ教育施設は整備充実され、生徒がこのように増える筈はありません。又私の耳に教職員からの不平不満が届くことは一切ありませんでした。木村理事長の言葉の中で良く出て来るのが「組織のマネージメント」ですが、まさしく浪速での事績は組織管理の成功例ではないでしょうか。 

そして理事長は私に神社神道では深い意味のある「常若」と言う字を書いて欲しいと強く要望され、私もその思いを真正面から受け止め一生懸命に書かしていただき、全教職員の皆様の前で除幕式をさせて頂いたのが令和2年の5月27日、理事会の日でした。



今、名誉理事長として遠く学校を見守っていますが、100周年に当たり、改めて心から16年間の木村理事長の実績に深く感謝申し上げ、健康に気を付けて生涯現役で頑張って頂き、見事なポスト木村体制を敷いて頂くことをお願いしております。そして次に続く人々が学校法人浪速学院浪速高等学校・中学校の存在意義を次の100年に向かって益々高めて頂くことを祈願しています。

世界は今、コロナウイルス問題やウクライナへのロシアの侵略など大きな混迷の中にありますが、日本においても多くの課題があり、中でも少子化の問題は国力に直結する大きな問題です。このような時代だからこそ教育という尊い営為の意義は計り知れません。浪速学院でご勤務されている先生方に大いに期待しております。 

浪速学院100周年、誠におめでとうございます。